DOCTOR
喜地 慶雅
Yの独り言
どんな生い立ちなのか、また矯正事情などにご興味のある方はどうぞご覧ください。
1. 歯学部卒業後~修行、現在
2. 誕生、年少児~高校、大学入学まで
歯科大学を卒業し大好きな矯正や審美的な治療に本気でこだわり続けて早26年が経過しました。大学卒業後50歳まではひたすら全力ダッシュで頑張ると自分自身に言い聞かせて研鑽を行ってきましたが、ふと気が付くと昨年末(2015年12月)その50歳になってしまっていました(汗)。今回その50歳を迎え、改めて半生を振り返って反省もしてみたいと思います。
1.歯学部卒業後~修行、現在
歯学部6年の後半、卒業試験の勉強をしながら卒業後の進路のことも考え始めます。何らかの分野のスペシャリストになるのが自分の夢です。いわゆる普通の歯医者さんになろうなどとは全く考えていませんでした。やはり卒業後は、矯正を専攻しようかな、それとも、、、。
そのころもう一つ興味があったのが口腔外科です。(外科系が今でも好きなのは、そうした背景もあろうかと思います。基本的に外科系の学問や処置が好きなんだと思います。)どちらの科を専攻するか悩みましたが、やはり初志貫徹、周りの友人と比較しても早々と矯正を専攻することを決めました。(高校、大学と進路選択は随分といい加減、何も熟考せずに場当たり的に選んでしまっておりましたが、なぜか今回の選択は、自然と熟考した後に、選択出来ていました。自分でも不思議でしたね。)
卒業試験前は、それまでの人生の中で一番勉強しました。(大学受験勉強はいい加減でしたから、、、)多い日は、一日17時間くらい死にもの狂いで勉強しました。何せそれまでまともに勉強していませんので、そのくらい勉強しても間に合いません。自業自得と言ったところでしょうか。当時の我が6学年は、学生数190+α人に対して卒業試験の合格者は40人という狭き門でした。不合格者は、再試、それもだめですと留年です。
無事一発合格で卒業、国家試験も何も問題なくクリア。いよいよ矯正医になる為に研鑽が始まります。
日本国内に限らず欧米のどこの歯科大学でも矯正分野は、歯学部時代一通り学びますが、具体的な矯正治療の知識・技術については学部6年間内では教育されません。よって矯正歯科を専門に行う歯科医師になる場合や矯正治療を的確に行えるようにするには歯学部を卒業、歯科医師国家試験合格後、正式に歯科医師となった後に矯正の専門医育成コースに入り数年の研修を経て初めて矯正治療を行えるレベルに到達出来ます。歯科医師免許を所持していると誰でも矯正治療が出来そうですが実はそうではありません。
(しかしながら歯科医院の看板に診療科目として、「矯正歯科」という文字は、歯科医師免許を所持していれば誰でも掲載することが出来ます。患者様目線で見ると、看板に「矯正」と記載されていればその医院で問題なく治療出来ると思ってしまうのは、ある意味仕方のないことです。このことが様々な問題を生じさせてしまっています。)
自分は、絶対に矯正歯科を専門に行う歯科医師になると決めておりましたが、研鑽先をどこにするかということは悩みました。歯科大学の矯正学講座に入り大学病院で研鑽を積む、もしくは矯正専門の開業医で研鑽を積む、もしくは海外の歯学部の矯正学講座や矯正医育成コースに入るかという選択肢です。
将来的には、矯正歯科を専門に行う歯科医師で独立しようということもすでに決めていましたので、まずは現場の生の厳しい環境で研鑽を積もうということにしました。
(今思えば借金してでも海外の大学院に入学すればよかったと思いますが、その当時そこまで考えられませんでした。海外に行くということでサラリーマンの父のすねを更に細くしてしまうのは避けたいという思いも心の隅にあったと思います。単なる言い訳ですね。)
研鑽先は、矯正を主に取り扱う専門で大型の施設という設定をしました。親類には歯科医師はおりませんでしたので、親身に相談にのってくれるような相談者は見当たりません。どこに行ってよいやらさっぱりわかりませんでした。今のようにインターネットはありませんので、検索する事もネット上で誰かに相談することも出来ません。図書館に行って矯正の高名な先生方を調べたり、仕方なしに同窓会名簿をひっくり返し始めます。母校だけでなく他校のものまで。
先輩たちの勤務先を勝手に調べ「矯正を主に取り扱う専門で大型の施設」を数件探し出しました。その施設に突然見学と面接が可能かどうか電話連絡をしてみました。施設側とすれば、どこの馬の骨ともわからない状況ですので、簡単にOKはもらえません。そのまま諦めることはしませんでした。
今度はその先輩達へ面識もないまま突然電話し自身の希望を伝えました。本当に有り難い先輩達で、見ず知らずの私を見学可能というところまで段取りをつけて頂けました。頭があがりません。色々と悩んだ末、矯正歯科研究所というところになんとか入所することが出来ました。
この研究所の所長は、アメリカに留学し矯正を学んだ末、帰国し日本の歯科医師達に矯正を教育したパイオニアの先生で日本の矯正界の重鎮です。
また研究所内では、海外からの講師を数多く招き矯正の講習会なども開催しており継続して勉強出来るかなと思い志願しました。日本の矯正治療はある歯科医師が欧米の大学や矯正のソサエティーで治療法を学び日本へ持ち帰った後日本の歯科医師達に広めていったという歴史があります。ほぼすべて欧米からの輸入です。わくわく感一杯で勤務日初日を迎えたのを覚えています。
矯正研究所入所後、厳しい研修が始まります。どこの大学矯正科でも当初3年間くらいは、寝る暇も休日もないといわれている厳しく辛い研修スタートです。私たちの時代は矯正科の場合、おおよそ半分の人達が研修についていけなくて自主退職するか、実質首になるような状況でした。それほどハードな研修です。志が高くなければもちません。なんとなく矯正でもしようかな?なんて言う人は、いつの間にかフェードアウトしています。教育してもらう立場ですので、当然給与は無給です。体力的にも精神的にも、金銭的にも辛くてほろ苦い時代でした。
まずはお決まりのワイヤーベンディング(矯正用ワイヤー曲げの練習)です。一人前になるには、バケツ一杯になるまでワイヤーを曲げる必要があると大学矯正科で聞いていました。初めてのことなので始め自分でも今一つという感はありましたが、意外と問題なく終了。
その後、実習としては、タイポドント(歯の模型に矯正装置を装着し、実際の治療と同じようにワイヤーの交換、調節をしながら治療シミュレートを行うもの)を何症例も行いました。これも取りあえず終了。自分で言うのも何ですが、学生時代と同じで、実習系は問題ありません。
研究所では、定期的に世界各国から高名な講師を招き講習会を開催していました(表側矯正は、もちろん裏側矯正もこの時点で学びました。)のでそれに生徒として参加し、実習のシラバス通り、要はお料理ブックのように進めると取りあえず実習部分は難なく終わらせることは出来ますが、問題は、それぞれの理論です。診断です。矯正の学問体系が複雑で中々理解できない部分も多く、頭の中は、ひたすら勉強しても????です。
例えば、顎顔面部の成長発育について学び矯正治療とどのようにリンクしてくるのか等、診断方法等、中々理解出来ません。毎日、毎日、休みなしに朝から晩まで勉強しましたが、疑問点が増えるばかりで収集がつかないほどです。
卒直後の約5年間は、本当に眠る時間を惜しんでまで勉強しました。歯学部時代の卒業試験、国家試験の時の勉強なんてこの時期の勉強量と比べると大したことありません。この時期がわが人生の中で一番勉強した時期で、その当時日本で市販されている矯正に関する教科書、その他矯正系の本はすべて読破しようとしたほどです。
卒業後5年経過しても一部理解出来る部分が出来たくらいです。わくわくする学問ですが、矯正学は難しいです。故に誰にでも安易に出来る治療法ではないと思っております。
たぶん私は少数派!
矯正研究所に入所し、ひたすら矯正の研修を行っておりましたが、当然一般歯科治療も何も出来ませんし、わかりません。一般治療を学ぶべきかどうかと悩み、とある先輩に相談すると矯正歯科を専門に行う歯科医師になるのだから一般歯科治療を学ぶ必要はない。基本的に通常矯正医は、一般治療を行わない。一般には手を出すな、矯正だけ勉強しなさい。とアドバイスして頂きました。
(日本の矯正医の実情:日本の一般的な矯正の先生は、一般歯科を行わない方が多いようです。歯学部卒業後、矯正の研鑽の為に矯正学講座や矯正歯科を専門に行う歯科医師に何年も在籍し矯正歯科を専門に行う歯科医師になります。その後そのまま大学病院で矯正を行うか、矯正で独立開業するか、色々な一般歯科医院でアルバイト矯正医をするかという方が大多数を占めますので、一般歯科分野の治療を行わない方が多いのもこのような理由からです。)
研究所で毎日矯正の研鑽を行い少しずつ矯正のことを学ぶにつれ、歯科医師として矯正治療中の患者様に対して虫歯や歯周、顎関節、その他の諸問題に対してどのような状況になったら、どのような管理や治療を行うべきか、というような内容について的確なアドバイスもその治療も出来ません。
(歯学部卒直後、上っ面の知識はあっても国家試験合格レベルの知識は、こんなに役に立たない低レベルです。)
このまま矯正だけ研鑽して、果たして患者様の口腔内を将来良好にすることが出来るのかどうか不安になってきました。医学は絶えず進歩し診断方法も治療方法もその時代時代によって変化していくと思いますし、自分自身が卒後10、20年経過しても、何の研鑽もしなければ今の卒業直後の低レベルのままということです。当然、的確な診断が出来ず、問題を見落としてしまうか、全く的外れな対応やアドバイスをしてしまうことになってしまうと思います。最悪矯正治療の意味をなさない治療結果を生まないとも言い切れません。
日に日に不安が増す中、やはり矯正の研鑽を続けながら一般歯科も学ぼうと心に決めました。当然あの先輩や所長には内緒です。(私の持論ですが、医科も歯科同様ですが、専門Drは、他の分野の治療については知識がどうしても不足しがちです。
スマイルコンセプトの矯正Dr達は、矯正だけの研鑽に留めることなく歯科医師として恥じない総合的な診断能力をつけるように、またその時代時代で診断方法も治療法も少しずつ変化しているので時代に即した診断能力をつけるために日々努力研鑽する必要があります。と何時も口を酸っぱくして言われています。その為、どのDrも絶えず学会、講習会に随時参加しています。矯正の研鑽で矯正歯科を専門に行う歯科医師となったDrには絶えず相談に乗りながら総合診断の内容や考え方を伝え一緒に勉強しています。患者様の年齢や性別ごとにお一人お一人のお口の状態を総合的に考え将来に渡って良好な状態に維持出来るようにお手伝いをするというのが私共の大きな使命です。
そしてその中の歯並び、かみ合わせの分野を矯正治療という手段を使って治療しているにすぎないと考えています。また歯科治療を行う上でまず心掛けないといけないことは、原因の推察から始める必要があります。
虫歯を例にとってお伝え致します。なぜその虫歯になってしまったのか。またなぜその場所に出来てしまったのか。その虫歯は虫歯の中でもどのような状況なのか等考え続けられなければなりません。要は原因を推察し治療計画を立案する必要があると考えています。またその推察した原因の除去や改善に最も適した治療法を選択する必要があろうかと思います。虫歯があるからと言って単に虫歯を削って安易に何か詰めたとしても原因は全く除去されていません。その為、後日また同じようなトラブルを引き起こしてしまうことになることは明白です。歯並びも同様で、なぜその不正になってしまっているのか。なぜ、なぜ、と色々と推察しながら治療計画を立案し患者様と相談をしながら個々の患者さまに適した治療法を選択する必要があると思います。
そして密かに一般歯科の研鑽先を探し始めます。休日の日曜日を使うか研究所の退出後夜間診療の医院に行くか2つしか選択肢はありません。決めてきた医院は、夜間診療で有名な歯科医院でした。ウイークデイは、18時すぎに無理くり退所出来ますので、19時から23時すぎまで修行することにしました。その医院の院長からは、はっきり言って新卒のDrは、歯科衛生士より使えないので、給与もそれ以下。それでも良ければ来ても良いと言われました。即答でお願いいたします。としか言いようがありませんでした。本当に何も出来ませんしね!矯正研究所は無給です、夜間診療では本当に薄給ですが貰えてうれしかったのを覚えています。診療後帰宅できる時間は、おおよそ0時30分すぎ。毎日ヘロヘロになりながらも密かに一般歯科を学び続けました。
ひたすらハードな生活
矯正研究所の研修期間は3年。それ以降は、所長の許可があれば、そのまま勤務出来ますが、1年目の後半頃から、3年目以降の進路について悩み始めました。矯正は繰り返しますが、本当に難しく、学ぶことも一杯ありますし、矯正のフィロソフィーやテクニックも色々あります。
研究所だけでなく他の矯正治療も見てみることにしました。研究所の所長に他の施設の矯正の見学が可能か確認したところ快く送り出して頂くことが出来ました。決めた行先は、まずは母校の矯正学講座です。母校の矯正学講座の教授も快く見学を認めてくださりました。1年目後半から定期的に大学病院に見学に行くようにもなりました。その他も幾つかの矯正歯科を専門に行う歯科医院にも見学に向かい色々な矯正フィロソフィーを学ぶことが出来ましたが、見学だけですので自分のものになってはおりません。研究所内では、その時代日本ではほとんど行われていない裏側矯正なども盛んで、某テレビ局の人気アナウンサー○さんや女優の○○さんも裏側からの矯正でした。しかも私が担当という相当なプレッシャーです。このような方々を治療させて頂くという経験から審美的な治療分野についても多々対応する必要があり矯正+審美的な歯科治療の分野を深く学ぶこととなったと思います。
治療終了後テレビ画面や雑誌でその方々が出てくると後戻り他何か問題が生じていないかなど気になってテレビ画面や紙面に近づいて食い入るように見ていた時もありました。なかなか体験出来ないようなことを色々と体験させていただきました。
3年目後半研究所所長からは4年目以降も在籍を薦められ大変光栄なことでしたが、4年目からは、大学の矯正学講座を主な研鑽先としました。もっと色々なフィロソフィーやテクニックも学びたいというのが一番の理由です。矯正研究所は、退職ではなく非常勤として定期的に研鑽に向かう生活を選びました。非常勤を選んだ主な理由は、自身で治療を行ってきた治療中の患者様をしっかり終わらせることと治療終了後の患者様の経過をチェックする為です。治療のやりっぱなしでは、本当にその診断や治療方法で良かったのか、修正点が必要ではなかったか、その他予期せぬ問題が生じていないのか等、自分自身では確認出来ません。ただの若造の独りよがりの治療のままということになってしまいますので、フィードバックの情報を的確に得るためというのが主な理由でした。常に忙しく、ハードな生活が続きました。大学の矯正学講座時代は、矯正の色々な診断方法や矯正フィロソフィーの基礎、ツイードメリフィールド法、スタンダードエッジワイズ法、スエヒロ法、ストレートワイヤー法、ロス・ウイリアムズ、ベネット・マクロフリン、バイオプログレッシブ法、など幾つも学びました。
その他矯正臨床ももちろんですが、外科矯正治療の研究や6自由度顎運動計測器ナソへキサグラフイーやK-6を使って顎運動の機能分析をはじめ顎関節症や咬合の研究などにも携わってきました。
(このような理由から外科矯正治療やサージェリーファースト、顎関節、咬合、かみ合わせについて継続して研鑽を行っています。2000年のスマイルコンセプト開院時も高額なため通常開業医では常備しない顎運動計測機器ナソヘキサグラフィーや咬合力測定器オクルーザー、SAM3咬合器などを取りそろえ顎口腔機能分野も含めて治療計画を立案しようとしていたのは大学での研究から続いているものです。)
大学病院勤務3年経過後に日本矯正歯科学会の認定医を申請・取得しました。またその後結婚をしたりしました。その後も大学病院に勤務しながら、研究の発表や手伝いを行ったり、一般歯科医院で矯正担当医として矯正治療を行ったり、審美的歯科治療の研鑽の為、審美的な歯科治療を行う医院に勤務したりと多忙を極めていました。大学病院には、常勤で約7年、非常勤で約2年、合計9年間勤務を行いました。
卒直後始めは辛い時期も多々ありました。心が折れそうになったこともありました。周りには挫折者も多く自分自身もそれに引きずられてしまったほうが楽かな?なんて一瞬考えてみたこともありました。隣の芝生が青く見えなくもないこともありました。ただたった一度も矯正をやめようとは思いませんでした。私は矯正のスペシャリストになることしか考えていませんでしたので。どこかで聞いた話なのですが、その道のプロになりたければ、誰よりもそのことについて一日中考えなさい。誰よりもです。もしあなたより考えている人がいればあなたはその人以下です。また10年間誰よりも継続して考え続けることが出来ればプロの始まりです。と言うようなことを聞いたことがあります。この頃、卒業後12年継続して続けた矯正も一般歯科や審美的な歯科診療もようやく少しずつ自分のものになろうとしていました。やはり継続は力なりです。研鑽を続けながら独立開業を考え始めます。
また歯学部卒業後日本国内で開催される欧米人講師による矯正や審美セミナーには、毎月のように出かけ、国内外の学会にも積極的に参加し続け、稼いだ給与のほぼすべてとまではいきませんがほとんど講習会や学会の為に消費してきました。総額を算出したことはありませんが、たぶん数千万円に昇っていると思います。頭の中にこれらの知識、技術が詰まっています。私のお宝です。スペシャリストを目指して、まだ研鑽は続きます。
大学矯正科時代の後半にオロフェイシャルペインという学問のコースが海外で始まることを知り本気で海外留学を考えました。元々矯正治療と顎関節症や咬合、かみあわせについて特に興味があり学び続けていましたのでまたとないチャンス到来です。親のすねに頼らなくても自分で費用も捻出出来そうです。
ただその頃は、色々な医院で矯正治療や審美的な歯科治療などを担当していましたので、その診療も大学病院の矯正の患者様も誰かに引き継いで数年間海外に行くしかありません。本当に留学したかったのですが、お世話になっている医院や患者様に多大な迷惑をかけてしまうと考え諦めた悔しい経緯があります。
その後日本国内で遅ればせながらオロフェイシャルペインについて学んだり、また日本の歯科界で一番高名な審美歯科1年コース他(このコースのディレクターもまたUSC(南カルフォルニア大学)に留学し学び治療技術を日本に持ち帰り実践をしたDrです。)にも参加したり、審美補綴分野のラミネートべニアを初めとするオールセラミック治療や歯周形成外科や歯周再生療法なども継続して学びましたが、やはり開発者本人やその研究者達に直接学ぶ必要があると改めて感じました。(これらのコース内容が悪いという訳ではありません。それぞれすごく勉強になりました。)
でもやはり海外で直接学ぶという命題を変えてはいけません。USC(南カルフォルニア大学)のCDE1年コース、ニューヨーク大学CDE2.5年コースなど、積極的に海外研修を行ってきました。
また時にはスマイルコンセプトのDr達も連れて一緒に渡米します。IFED(国際歯科審美連盟)主催の学会では、世界中の第一線の審美歯科医が一同に集まり世界最先端の審美的な歯科治療法が勉強できます。
ある先生はあの時ラスベガスまで誘ってもらって、あの学会に参加していなかったら、、。IFED参加から歯科医としての人生が変わったといつも言っています。やはり自分の目で直接見て感じ学ぶということが重要のようです。
歯科矯正用アンカースクリュー(TAD)もようやくここ2、3年で日本でも認知されてきましたが、15、16年前の当時の日本ではそのような歯科矯正用アンカースクリュー矯正法を学ぶ機会も材料器材も全くありませんでしたので、インプラント学については主に海外、ニューヨーク大学やTADの開発をしたソウルの延長大学(余談ですが、TADの国際特許は延長大学を初め、ほとんど韓国の矯正医が取得しています)、その他の施設で研鑽を積んできました。
2000年当時の矯正用アンカースクリューは、いわゆる歯がないところに人工歯根を入れるいわゆるデンタルインプラント(ITIというメーカー)を改造して矯正用に応用を始めていました。それ故デンタルインプラントと全く同じ取り扱い方、器材も外科処置の内容も同一という時代でした。
矯正用アンカースクリューとデンタルインプラントは、使用目的が全く別物なのですが、生理学や病理学の範疇では、要するに学問的には矯正用もデンタルインプラントも同一扱いですので、デンタルインプラント学も同時に学んできました。 と言いますか結果的に取得してしまいました。様々な分野の研鑽を積みながら日本では手に入れることが出来ない機器や材料も随時手に入れて日々の診療を行ってきています。
審美的な歯科治療の一部であるラミネートベニアなどの審美補綴は、この分野の世界的な権威であるDrパスカルマニエ チームから学びました。天然歯と見間違えるような治療結果や歯を極力温存させるバイオミメティックの考え方は今尚最先端の考え方です。
一方国内に戻り診療を始めますとラミネートべニアなどの審美的な治療について近所の歯医者さんで相談したら、外れるし、割れるので良くない、歯の周りを一周削って差し歯にするほうが良いと言われたという方々が多くご相談に訪れます。いろいろな考え方があってしかるべきであると思いますが、その学問をしっかり系統だって学んでいなければ治療出来ませんし、正しい評価も難しいのではないかと思ってしまいます。物まねしても失敗するだけです。差し歯にしてしまう方が、歯を大きく削り内部の神経にまでダメージを与え結果的に寿命を短くしてしまうことは明白な事実なのです。
ラミネートべニアなど数え切れないほど治療して参りましたが、治療の鉄則、原理原則を厳守して、正確にステップを踏んでいれば、すぐ外れるということは一度も経験していませんし、通常の生活上で割れてしまうようなトラブルを生じることは非常に確立の低いことであると思います。自分の歯を最大限温存するだけでなく、色、形も多少の歯並びのずれまでも変えることが出来る時代に即した良い治療法だと思います。
今でも尚、欧米よりおおよそ5年遅れの日本です。
よりよい治療結果を目指して、まだまだ私の研鑽は続きます。
(乱筆、乱文の中、ご覧いただきまして有難うございました。)
2. 誕生、年少児~高校、大学入学まで
両親は共に薬剤師で、祖父母も東京日本橋で薬局を営んでいたり、両親戚の多くが薬剤師という薬剤師一家の家系です。両親、親類含め製薬会社勤務の人たちがほとんどで、現在でも某薬科大学の教授をしている人もいたり今なお薬剤師一家です。
その一家の長男として、東京都新宿区落合の聖母病院で1965年12月に未熟児で生まれました。予定日よりも約1.5ヶ月程度早産でかつ体の小さい乳児であったそうです。その後も未熟児が影響してかどうかは判りませんが、比較的幼稚園も休みがちで体が丈夫とは言い切れない状態であったと聞いています。ただ喘息の発作時以外は、やんちゃでわがままな男児で両親も先生もいつも手を焼いていたそうです。両親共に遠方の私立の学校に通っていた影響かどうかは判りませんが、逆に私自身は、近くの地元の区立の小、中学校に通学しました。小学校1年時に近くの友人が剣道の道場に通い始めました。
その影響もあって両親は私にも剣道を習わせ始めました。当初の目的は、喘息の治療の為に、要は呼吸器系を鍛えることを目標として入塾させたと言っています。継続して剣道を続けた結果かどうかはわかりませんが両親の思惑通り喘息発作が出ることは一切無くなりました。一時期は元の道場と豊島区の目白警察署内の剣道場にも足を運び剣道漬けであった時期もありました。各道場での稽古は、非常に厳しく子供だからと言って手ぬるいことはしません。稽古中ふっ飛ばされて壁に激突し頭から流血するようなこと、試合に負けた後には猛稽古をされ帰りには動くことが出来なくなるようなことは日常茶飯事でした。武道の礼節を重んじること物事気合いが重要であること(昔の教育ですね~気合い、根性)を、年少児に徹底的に鍛えあげられた気がいたします。その他は地元の悪友と共に本当に伸び伸びと勉強もせずに、遊びや趣味に明け暮れて成長してきました。何せ遊んでばかり、趣味に没頭してばかりですので成績は想像の通りです。
またやんちゃばかりしていましたので、母親は毎週のように学校から呼び出されていました。小学生時代の趣味は、絵画、魚釣り、プラモデル作りや丁度スーパーカーブームの時期でしたので、車のメカニック調べや車の写真撮影に明け暮れていました。中学生になると、ハードロックの虜に。あの頃の自身を分析しますと好きな事、興味のあることには本当に没頭しますが、それ以外は、さっぱり、、、。という性格だったと思います。三つ子の魂百までといったところでしょうか。
高校は都立高校に進学しました。当時の都立高校の入試制度は変わっていて、その中学校によって案分比率は少し変わりますが、我が中学校の上位5%程度が一番目の高校群、その下10%前後の生徒が2番目の高校群、その下15%が3番目、4番目、、の高校群に進学するという制度でした。
また、入試の合格発表日に各高校群内別で通学する学校に振り分けされ、進学する学校が合格発表日に判明するという今考えても随分と変わったシステムであったと思います。私は2番目の高校群で比較的自宅から近い高校に振り分けされました。私立高校からも合格を頂いておりましたが、悪友が同じ高校に振り分けされていたこと、自宅から自転車で10分程度で通学出来るという単純な理由で都立高校を選択しました。
高校進学後は、色々な運動部、水泳部、サッカー部等の入部も考えましたが、何せ他のスポーツでは出遅れてしまうことに途中で気が付き、取りあえずまた剣道部に入部してしまいましたが、相変わらず遊びと趣味に明け暮れていました。小学1年から剣道を行ってきましたので、高1から取りあえずレギュラーで試合にも出場させてもらいましたが、何せ今まで自分自身がやりたくてやってきた訳ではなく、なんとなくいつの間にか剣道を続けていたという心境の為、真面目に剣道に取り組むことはありませんでした。勉強も不真面目、クラブも不真面目なちゃらんぽらんの生活を送ってきたと思います。いつの間にか高校3年となり、周りの真面目なクラスメート達は、推薦入学制度を利用し慶応、早稲田、東京理科大、明治と次々と大学が決定し始めたころ、焦って受験勉強を始めます。もう間に合うことはありません。一方、諦め組は、教室の黒板の上段脇に「共通一次まで あと400日」、「、、399日」と毎日記載していたのを鮮明に覚えています。
大学受験では、当初、建築学部、電気電子など工学部系を考えておりましたが、両親の薦め?もあっていつの間にか薬学部志望で勉強を進めていました。気持ち的には浪人覚悟でした。年も明け大手の書店に薬学部の過去問(いわゆる赤本)の物色をしに行ったある日、ふと歯学部の問題集を手に取りました。
そこで人生に転機が訪れます。ふと薬学部ではなく、歯学部もありかと頭の中ではぐるぐる考え始めました。両親達と同じ職業では、面白くないと吹っ切れた気持が浮かび上がってきました。なんともいい加減な動機です。歯学部は、2月初旬に入試がありますが、受験をすることに決めたのは、なんと1カ月前といういい加減さです。元々勉強不足で5教科7科目の共通一次の対応が間に合わない為、現役では国公立用の共通一次はあきらめ私立の薬学部に絞っていた私は、その時期には理科は、化学1教科しか勉強していませんでした。
私の当時の稚拙な歯学部受験戦略は、合格ラインの点数が100点満点で70点と仮定すると、英、数、化+もう一教科の理科、4科目と小論文という受験科目でしたので、合格ラインが4科目計280点くらいと推測しました。そこで得意な数学、化学をほぼ満点、英語はそこまで自信はありません、今一つです。(もっと英語勉強しておけばと今なお後悔しています。でも英語勉強するより数学の難問解いている方が楽ですね。)そして勉強していない物理、もしくは生物を5~10点くらいとすると合計290点くらいになるかもしれません。もしかするといけるかもと勝手に思うようになりました。
そのような状況の中、「歯学部を試しに受験してみよう」と思うと突然突拍子もないことを言う私に、高校の担任からも「おおばか」と罵られながらそのまま2校の歯学部と一応薬学部1校を受験しました。取りあえず戦略は、的中!運よく3校とも合格、元々浪人覚悟で次年度が本番と考えていましたが、遊びたい盛りの私は、浪人を諦め??しかも薬学部ではなく歯学部への入学を希望してしまいました。すんなり歯学部入学を認めてくれた両親ですが、父親からは、注文が、、、。通学途中に繁華街をなるべく通らない通学路と大学の周囲に遊ぶ場所がないところが条件と言われてしまいました。たぶん途中下車して遊びに行ってしまうことや帰宅前にどこかで遊んでいる姿が見えていたのだと思います。図星がついている、といったところでしょうか。ということで田舎の大学を選んでみました。まともに受験勉強もせずに大学に進んでしまいました。頭の中は遊ぶことで一杯の自覚の足りない高校時代でした。(高校、大学と何の考えもないまま、本当にいい加減に軽い気持ちで進路を決めてしまったと思います。結果論としては、自分自身に向いていた歯科医師という職業でしたが、適していない分野でしたら目も当てられません。本当に運が良かったとしか言いようがありません。)
歯学部入学が決まってから歯科医師という職業を改めて考え始めました。当時歯学について何も学んでおりませんが、あの矯正ってやつをいずれやってみたいと漠然と考え始めていました。大学時代も高校の延長線で試験前のみ一夜漬けで試験勉強だけはしますが授業中も上の空、趣味に明け暮れた学生時代でした。ただ授業の実習時間は楽しかった記憶があります。元々手先を動かすのが好きであったということと絵画、工作などの芸術系も得意であった為、各種実験、解剖、歯の形成、入れ歯の配列、その他の歯科技工も何のストレスもなくいち早く合格点ももらえます。年少時のプラモデルや釣りの毛ばりやルアーの作成が役に立っていたかもしれません。人生何が役に立つのかわかりませんね。
(最後までお読みいただきまして有難うございました。私のモットーは、仕事はきっちり、あとは???(笑)。)